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〜平賀儀雄著〜
昭和28年
【はまぐり物語】より
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得体の知れぬ日向市産の蛤
宮崎県の特産物の中でのナンバーワンは何と言っても蛤で作った碁石に勝るものはない。一体特産品と言っても品によってはその県だけに産するものでないのが普通であるのに、この蛤碁石だけは薄ぺらな下級品は別として高級品に於いては絶対に宮崎県以外に出来ない品だから大いに誇るに足るものである。もし大阪や東京にも出来たとしたら宮崎県の原料を密かに入手したもので作ったのか、さもなくば宮崎県産のレッテル替えの品である。
日本は海に恵まれているとは言え、この碁石に蛤だけは日向市の海岸以外の浜には育たないのだからどこまでも宮崎県の特産品であり、他府県が真似の出来ない品である。
これは丁度高千穂が日向以外にないのと同じでもし高千穂が他にあったとしたら神武様が二人になり、歴史家が忙しくなることであろう。
それはともかく蛤はどこの海岸でも沢山採れるのになぜ碁石にならないのか?一体どこが違うのか?殻が太いのなら碁石になる筈だとは大方の常識であるが、それが違うのだ。この日向市産のはまぐりはその得たいの知れぬ発育があってそこが碁石になる最もよい所となっているから面白い。
この特徴については貝の権威者である滝博士も数回に亘って現地に来て研究せられたが今にこの自然の現象?には結論が出ていないままになっているから素人が兎や角云う筋合いではないがこれは種類が違うのだから他所の浜に養殖してみたらどかと云われ、実験したこともあったが碁石になるものは出来ないというのが常識になっているからこのはまぐりによって出来る碁石は何時までたっても日向以外には出来ないことになる。
近代科学の枠の製品も絶対に日向碁石には兜を脱いでいる始末でこの日向碁石だけは天下独歩の特産品で世界に類のない特産品である。 |
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碁石原料、はまぐりは何時頃発見されたか
明治30年前後のことでそれまでは士地人にとっては浜の石に等しいもので誰一人拾うともしなかった。最も碁の歴史は古く支那の黄帝以前からとの説もあるくらいで、はじめの碁石は石または木で作られメノー類の宝石類で作られたと伝えられるがそれは兎も角日本で貝を用いて作られたと云うのは明治初期との説が有力で当時は三河の桑名のはまぐりを原料として大阪で製造が盛んになりこれが日本一の碁石であった。
ところが年々原料が減少し高級品の厚物が不足し始めた頃のことである。当時大阪の碁石屋の番頭で森元次郎というのが大阪から今の日向市(当時の岩脇村平岩)に来て盛んに浜に出て貝殻拾いを始めた。
ところがその頃の平岩の人たちはその貝殻が高価な碁石になろうとは誰知ろう筈がない。一体あの男は何にするため貝を拾うのだろう?と思う人ばかりであった。ところが元次郎にとっては全く金貨を拾う思いで狂気の如くなって波に打ち上げられる貝殻を拾うのであった。そして叺に入れては大阪に送るため細島の港に運んだものである。元次郎の貝殻拾いは数年に及んだが彼が貝殻拾いを始めた当時土地の人から気狂扱いにされた逸話さえ残っている。
と言うのは彼は未だ30歳足らず紀州に生まれ、15、16歳の頃大阪に店員奉公に出でのち碁石屋の石橋小七郎方の店員として働くうち、主人の小七郎が越中富山の入薬屋が日向に行商に来た際珍しい貝が浜に打ち上げられていると聞かされ、それではと云うので番頭の元次郎を日向に遣わしたが元次郎が来て見るとこれまで見たこともない見事なはまぐりの貝殻が浜一面に脚の踏み場もないくらい散らばっているではないか?
元次郎にとっては夢の国であった。小踊りして夢中の間にこの貝殻の採取にかかった。その嬉しさに彼は手振り足振り小踊りしつつ毎日この貝殻拾いに夢中であった。
この様子をみた村人たちは・・・あの男はオイ、気が変だぞ・・・はまぐりの殻を拾って踊っておるではないか・・・俺もそう思ってみているところじゃが・・・これが元次郎にとってはこの上もない幸せであった。
毎日叺に入れて程遠くもない細島港の船便に托して大阪の主人、小七郎の元に送るのであった。のとには人を雇って拾い毎日の如く細島港の船便で人の知らぬはまぐりの貝殻は大阪に送られたから主人小七郎は人知れぬ金儲けとなった。送ってくる碁石原料を相手に一手に碁石不足を知らぬ小七郎は忽ちにして大阪一の碁石屋になったのである。
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はまぐりの産地
このはまぐりは今頃何所の海岸で採れるのか、それは日向市のお倉ヶ浜が主産地で同市平岩のお金ヶ浜の二ヶ所に限っている。勿論はまぐりは日向の海岸に限ったものではない。が分厚いものの碁石になるはまぐりは日本中どこを探してもこのお倉ヶ浜とお金ヶ浜のそれに勝るはまぐりは全然発見されていない。
また日向はまぐりの発見されない頃には三河の桑名の海岸に優秀なものが採れ当時大阪碁石の原料はこの桑なのはまぐりによって賄れていたがこの地のものは次第に産額を減じ現在ではその姿を消しているから日向のみが碁石産地に必要な量を賄う全く天恵的な存在となっている。しからばそのお倉ヶ浜と言いお金ヶ浜とは一体どんな浜か?
一口言えば、別に他所の浜と何等異った所はない。日本南海岸日向灘の一角常に荒波吼ゆる浜砂に過ぎない。海上遠く島影一つない一朝嵐となれば荒れ狂う大波は浜沿いの松根をも荒らすほどの難所であるが海岸は遠浅で従来は両浜共に地曳網の名所で春の頃から初夏にかけてのアジ、サバ漁で名高い所であったが今は近代漁法発展の犠牲となって産額は物の数でない。僅かに変わっているといえばこの浜は一体に微粒の砂で小石一つない見事な砂浜である。
生貝はこの砂の中で繁殖し続けているがこの貝が何時の頃から棲息し繁殖したものか結論づけてないがこのはまぐりには弘法大師に因む伝説が結びついて面白く地方の語り草は次の通りである。
石橋小七郎が日向のはまぐりによって碁石業界の第一人者になったが、之も永久に彼のみに決して独占は許されなかった。それは原田清吉とこ日向碁石製造の先覚者が現れたからである。 |
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日向碁石の先覚者原田清吉
この原田清吉は小七郎の店員森元次郎に雇われて蛤の貝殻拾いの日雇として働いていたが、小七郎が日向下りをして豪奢な遊びをすることに目を付けた清吉は、このはまぐりの貝殻によって造られる碁石がそれだけ儲かるものなら貝殻を拾う人夫であるよりその碁石の製造を覚えねばならぬと心密かに悟る所があった。
よーし、己は碁石の製造を覚えねばならぬ、貝は幾ら拾ってもつきるものではない、大阪に上って碁石屋の職人となろう・・・彼はこう決心した。幸い彼の親家のものが大阪にいるのを手がかりに大阪行を企ったのであった。清吉は年僅かに20余歳。当時鉄道もない日向路を大阪に旅立つことになったのであるが、この頃の大阪行は今時のアメリカ行にも似た旅立ちであったのである。
彼は細島港から海路大阪に初の旅路に立ち身を親家に宿して碁石屋に住込みみかかった。始めに宮崎某と言う碁石屋に弟子入りして聞き馴れぬ大阪人の言葉に耳を傾け彼は一人前の碁石工となることに懸命の努力を払ったのである。この宮崎碁石屋にいることで年余であったが、彼は他の職人と志を異にしていたからその上達は他に優れるものがあった。修行中にも他職人の間のうわさが碁石製造に関する話になると一句の聞き漏らしもなかった。
自分は一個の職人ではない。賃金の高いのが目的でもない。人に優れた碁石工となることだ。そして自分の郷里日向には自分が一人前の職人になって碁石に仕上げてくれと浜の蛤の貝殻が待ってくれている筈だ。と彼は自らを励まして修行に専念するのであった。
遂に彼は工場主の滞阪の説得も耳に入らなかった心を躍して故郷に帰り(当時の富高町)日向市財光寺の我が家に於て初めて日向碁石の製造にかかったのである。これが今の日向特産蛤碁石の元祖である。 |
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蛤貝の産地と伝説
さて日本では何に彼につけて有名品になると伝説がつきものである。この蛤貝もそのれいにもれず面白い伝説があり話の種子を作っている。この蛤貝の産地は日向市の海岸お倉ヶ浜が主産地でその隣のお金ヶ浜にも産するがこのお金ヶ浜の産額は極めて少なく主としてお倉ヶ浜の貝で碁石生産の大部分を賄っているのである。蛤といえば何所の海岸にもあるのに何故この海岸のものだけが碁石になるのか?ここに異った蛤が育っていることにその有名さがあるわけだ。
一口に言うとこの海岸で育つ蛤は一種奇形的に発育しているのでその奇形的存在が碁石の材料に最も適した貝であるがこの原料が他の海岸にないのである。
その発育関係については多年専門家が研究しているが今に結論に達していない。また、この海岸の椎貝を他の海岸に養殖されたこともあるが他の養殖ではこの奇形的発育が得られないのでこの蛤の多收は今のところ望めないのである。
それはともかくとしてこの蛤の伝説というのは、弘法大師に因む伝説で今なおこの地に伝わり貪慾戒めの言い伝えとしてさらに後世に残るであろう。
この浜は昔から蛤の産するところである日、お倉ヶ浜でお倉と申す娘が1人貝を拾っていた。
ところがどこから来たものか貧しい一人の旅僧が貝を拾っているお倉のもとに現れた。
すると旅僧は娘のお倉に対して・・・見事な蛤が?といって如何にも欲しそうに聞くので、もしご所望でしたら幾らでも進じませう、といって差し出せば旅僧は・・・これはもったいない、ではありがたく拝領致しませう。・・・
では、お前さんの名は何と申されるか・・・お倉と申します。・・・
アーよい名じゃ、ではこれからさきこの浜の名をお前さんの名に因んでお倉ヶ浜と名付けましょう、またこれからいつまでもこの浜には沢山な蛤が育つようにして進ぜましょう。と言い終わったかと思うと、その旅僧の姿は消えてしまったという。
またその日のこと、お金ヶ浜にもお金というお婆が蛤を拾っていた。そこにもまた旅僧が現れ・・・
お金婆に対して・・・何と見事な蛤ではないか・・・沢山採れて結構な事というと。
貪慾なお金婆はこれは蛤ではない。蛤に似た石で食べられるものではないとすげなく言い放った。
すると旅僧はそれはそれは見事な石もあるものだ、・・・して、この浜には以後このような石ばかりの浜にして進ぜようと言って姿は消えたという。
以後この浜の名もそのお金婆の名に因んでお金ヶ浜と呼ぶようになったと伝えているが、その旅僧こそは弘法大師であって大師の諸国巡ようを伝えた貪慾戒めの警句に過ぎぬものであろうがこの伝説が如何にも眞事しやかに伝えられる如くお倉ヶ浜は多くの蛤を産し、お金ヶ浜は近年とみに産を失うに至っているのが現況である。 |
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